怒りを上手くコントロールする方法がある

人は誰しも怒ることがある。

怒ることは、人の最も基本的な感情なのかもしれない。

喜怒哀楽というが、喜哀楽を表立って表現しないように見える動物も、「怒」だけは、相手にわかりやすく表現する。それだけ「怒り」は基本的で重要な感情である、ということだろう。

だが、人間関係において、怒りを表に出すことは得策ではない。まわりから怒りをコントロールできない子供である、と見なされるのがオチだ。そのような人物が尊敬されることはない。

怒った時にどういう対応ができるか、その時が人間性を試される正念場になる。

では、どのように怒りをコントロールすればいいのだろうか。

怒りは自然だが損気になる

怒りは湧き上がる

突然、怒りがこみ上げてくることがある。

相手の言動から自分のあるスイッチが入り、突然、怒りが湧き上がる。

最近、わたしがイラッとしたのは、歩行者を軽視するドライバーの振る舞いだ。

当たり前の話だが、歩道を歩いている歩行者は車に優先する。にもかかわらず、歩行者の直前を横切る車がたまにいる。直進車がくる前に横切りたい、という気持ちはわかるが、歩行者がいれば我慢して待つのが当然だ。歩行者に身の危険を感じさせてもいい、ということにはならない。

こういう時は怒りがこみ上げる。自分の権利が不当に侵害された、と感じるためだ。

相手の身勝手な振る舞いで自分が犠牲になった、と感じると怒りたくなるよ。

感情が言動を決めてはいけない

理性ではなく感情が言動を決める、という状態は避けなければいけない。

このことは、あなたの経験からもわかるだろう。感情的な行動は、あとから後悔するものだ。

自分を戒めるために、ある上司の話をしたい。

その上司は良くも悪くも感情的な人であった。良い方に出れば、感情豊かで部下や同僚と喜怒哀楽を共にできる、人情家である、とできる。だが、悪い方に出れば、感情的であり、理性的に事象を判断することができない人である、ということになる。



上司は激怒した

ある時、わたしがミスをした。

上司がプレゼンをすることになっていたのだが、その資料をよく似たものと間違えたのだ。

上司は本番ではじめてそのミスに気が付いたのだろう。わたしは、その場にいなかったのでわからないが、困惑して失敗したのだろうと思う。彼は、プレゼンが終わったあと、すぐにわたしに電話をかけた。

そして、怒りに任せてわたしに罵詈雑言を浴びせた。

その時、上司の近くにいた同僚が、後に「さすがにあの言い方はないよね」「言い過ぎだ」とわたしに言ったので、相当酷いことを言ったのだろうと思う。わたしは、上司の一線を越えた断片的な言葉と自分が謝罪したことは覚えている。

問題行動をとった

問題は、次の日だ。

彼の怒りは収まっていなかった。

取り巻き数人を連れてわたしのデスクを取り囲み、つるし上げだ。

上司が出社したときに、「昨日は大変申し訳ありませんでした」と、すぐに謝りに行けばよかったのだが、昨日あれほど罵倒されたため、そうする気にはなれなかった。そこまで人間ができていなかった、ということだ。

あいつは謝りにこなかった、ということで、怒りに輪がかかったのだろう。

その結果、わたしを集団でつるし上げる、という行動になった。

さらによくなかったのが、その取り巻きのひとりが、上司に取り入ろうとしたのか、まったく別の話でわたしを非難したことだ。その話については、わたしに非はなく、非難されるいわれはなかった。不当な言いがかりであった。

こう書くとブラック企業のようだが(笑)、企業の名誉のために書くと、ホワイト企業だ。

取り返しがつかなくなる

わたしがこのエピソードから言いたいことは、一時の感情で言動を決めるな、ということだ。

そうすると、取り返しのつかないことになる。先の上司の例では、「罵詈雑言」はまずいし、「つるし上げ」もまずい。今であれば、完全にパワハラということになる。やった方はすぐに忘れるだろうが、やられた方は一生覚えているのだ。

つるし上げの時の(事情を知らない)まわりの驚いた反応は、今でもはっきり覚えている。

やむを得ず叱る時は、一対一で叱る、というのが基本であり、つるし上げは論外だ。



怒りをコントロールする

事実に注目する

解釈を交えず、限定的な事実だけに注目する、という方法がある。

たとえば、対向者と肩がぶつかった時、「肩が人とぶつかった」、「痛みを感じた」という限定的な事実だけを認識し、その他の事実や自分の解釈を交えない、という方法だ。そう割り切れればいいが、簡単ではない。

狭い歩道を相手方が二列でやってきてぶつかった、こちらが避けたのに相手が全く避けなかったのでぶつかった、ということになると、それらの事実を無視するのは簡単ではない。

相手方が一列になればぶつからなかったし、避ければぶつからなかった、と思うのは当たり前だ。

都合よく限定的な事実のみに注目できればいいけれど、簡単ではないね。

怒っている自分を観察する

では、突発的な怒りにどう対処するか。

まずは、怒っている自分を客観的に観察する。

怒っている自分を、もうひとりの自分から客観的に眺めてみる。

今は、こういう事情で怒っているんだな、と怒りを認める。別に怒ることは倫理的に悪いことではないし、自然なことだ。だから、怒りを素直に認め、自分にはこういう怒りのスイッチがある、ここを押されると怒りやすいのだ、ということを理解する機会にすればいい。

その怒りは妥当か、正当性がどれぐらいあるのか、と考えてもいいだろう。

怒りの持続性に注目する

怒りは時間の経過とともに鎮まるものだ。

3日後、3週間後、3か月後、どうか、と考えたい。

3日後ぐらいであれば、まだ怒っているかもしれないが、たいていの怒りは、3週間後になると鎮まっているはずだ。侮辱されたり、人格を否定された、ということからの怒りであれば、怒りの炎が消えることはないが、それでも時間の経過と反比例し、ある水準まで鎮まるはずだ。

わたしも、先の上司に対する怒りという感情はもはやない。反面教師として学べる点のある人物である、という認識である。もちろんそれだけではなく、同時に上司の良い面も素直に評価できる。

怒りの水準が時間の経過とともにどんな曲線を描くのか、をイメージしていれば、「今が怒りの頂点だな」と冷静に分析できる。さらには、3週間後をイメージして怒りを抑えることができるようになる。

これが、怒りをマネージメントする、ということだ。

まとめ

今回は、怒りをコントロールする方法について書いた。

怒りは基本的で重要、かつ自然な感情であり、倫理的に悪いものではない。

だから、短絡的に「怒ること=悪いこと」としなくていい。「怒り」に自分の言動のコントロールを任すこと、言い換えれば、自分の操縦席に「怒り」を座らせることが悪いことであり禍根をのこすことなのだ。

まず、限定的な事実のみに注目する方法がある。

これができる人はそうすればいい。自分の怒りのスイッチを入れるような事実には目をつぶる、ということだ。

わたしのおすすめは、メタ認知を利用して「怒っている自分を、もうひとりの自分から客観的に眺める」ということだ、そこから自分自身について学べることがある。

さらに、怒りの水準が時間の経過とともにどんな曲線を描くのか、をイメージする。そうすることで、今はこのあたりだな、と冷静に怒りと向き合い、怒りをハンドリングすることができる。

怒った時があなたの評価を決める正念場である、と理解しておこう。