人に迷惑をかけるから…という発想を変える

人に迷惑をかけるからやめておこう…ということがないだろうか。

この発想が正しいかどうかは、迷惑の種類による。何より我欲を優先する迷惑の場合は正しい。だが、「かけてもいい迷惑」の場合は間違いになる。この発想は、行動を制約することになるのだ。

本記事では、人に迷惑をかける…という発想をバージョンアップすることを提案したい。


迷惑にもいろいろある

迷惑をかけてはいけない

人に迷惑をかけてはいけない、という考え方は間違っていない。

迷惑をかけると人は不快な感情を抱く。人を不快にさせていいことはまずないだろう。

自分のことを振り返っても、いろいろ他人に迷惑をかけたと思う。会社員のときにかけた迷惑で思い出すのが、社内のプレゼンを本番の前日になって別部署の人にお願いした、ということだ。

ぎりぎりになるまで、自分たちでなんとかしようとしたが何ともならず、切羽詰って他部署の人に助けを求めた、ということだった。急な依頼をうけた他部署の人にとっては、大迷惑だった。

何とか引き受けてもらったが、プレゼン終了後クレームを受けた。

自分の評判を下げる行動になってしまった。

かけてもいい迷惑がある

かけてはいけない迷惑があれば、かけてもいい迷惑というものもある。

それは、不可抗力的な迷惑であったり、ベストを尽くした結果の迷惑である。

また、他人が迷惑と思わない迷惑やお互いさまの範疇に収まる迷惑も、かけてもいい迷惑になる。

たとえば、わたしはそれほど親しくない大学の教授に推薦状を書いてもらったことがある。面倒だし迷惑だろうなと思いつつ依頼したのだが、お互いさまだからと勝手に割り切って依頼した。

※彼も昔推薦状を書いてもらったはずで、お互いさまだろう…と都合よく考えたのだ。

当然相手の教授には、断わる自由・権利があった。

迷惑だと思わないことも…

人が迷惑だと思わないのに、自分が勝手に迷惑だと思うことがある。

何度も泊まるように言ってくれましたが、「こんな急に人が来たら、友人はともかく、ご家族に迷惑がかかる。そんな事までしてもらったら、本当に申し訳ない。私のためにみんなが迷惑するなんてとんでもない」と思い、断って帰ってきました。


しかし、その後その友人からは「人が心配して言ってあげてるのに、素直に受け止めて欲しかった。あなたは人の善意をも受け止めようとしていない」と言われてしまいました。
出典:私は、人に迷惑をかけたくないと思っています

相手が迷惑だと思っていないのに、迷惑になるのでだめだ…と頑なに思ってしまう。

自分が友人の家族だとして考えると、「急に子供の友達がきて泊まるのは迷惑だろう…」と考える。自然な考えだと思うが、相手がそのことを迷惑だと考えるかどうかは、わからないことだ。

相手の言動を観察したり空気を読めばわかるが、固定観念があればそれもできない。

人には誰かを助けたい、誰かの力になりたい…という思いがあるよ。思い込みで相手の好意を踏みにじってしまってはまずいよ。

迷惑をかけると思うと…

萎縮する

人に迷惑をかけるから…と思いすぎると萎縮する。

本来、人にかけてもいい迷惑もかけられなくなってしまうのだ。

萎縮すると、行動できない・人の助けを借りることができない、というまずいことになる。

扉はたたかなければ開かない、ということがある。たたけば開くかもしれないのに、自分が扉をたたくと「相手の迷惑になるかもしれない…」ということで、叩くこと自体を躊躇してしまう。

そんな風にしていると、年齢だけ重ね何もできなかった…ということになりかねないのだ。

萎縮して成功する人はいないよ。

非合理的な選択に

固定観念を持ち萎縮した状態になると、非合理的な選択をしやすくなる。

先に書いたように、相手の言動を観察し空気を読んで判断する、というシーンがある。

仕事でもプライベートでもそういうシーンがあるが、そのときに合理的な判断ができなくなる。固定観念というのは、重力が空間の歪みを作るように、認知の歪みを作り出すことがあるのだ。

※迷惑をかけてはいけない…という固定観念の引力が強いため、認知が歪んでしまう。

寛容でなくなる

人に迷惑をかけない、という行動原理があると、他人に寛容でなくなる。

自分は人に迷惑をかけないようにしているのに、なんだアイツはということになる。

人に迷惑をかける人はたくさんいるので、日常的に彼らの行動をみてイライラすることになる。イライラしても、体に悪いだけでいいことはない。イラついて文句を言えば、トラブルになる。

他人に対する寛容さを失うと、自分に対する他人の寛容さも失うことになるだろう。

こう考えればいい

人に迷惑をかけてはいけない、は正しいが万能ではない。

かけてもいい迷惑があり、その種の迷惑はかけていい、とする。

そして、かけた迷惑を投資(原資)にして、かけた迷惑以上のリターンを生み出す、とする。迷惑をかけたのであれば、それ以上のリターンを生み出し恩返しをすれば社会にもプラスになる。

自分が迷惑をかけたら、迷惑をかけられてもいい…といういい循環ができる。

まとめ

本記事では、人に迷惑をかけるから…という発想を変えてみればどうかとした。

自分が迷惑だろう…と思うことすべてに、この発想の網をかけることは間違いである。

そんなことをすると、萎縮して消極的になったり、認知の歪みから非合理的な選択をしてしまったり、他人に対する寛容さを失い自分に対する他人の寛容さも失ってしまうことになりかねない。

だから、かけてもいい迷惑についてはかけていい、とする。

迷惑を怖れ心配しながら行動する、というのはなかなかむずかしい。だから、迷惑をかけたらそれ以上のリターンを生み出すことで、迷惑をかけたことに意味をもたせる、とすればいいだろう。

仕事でも「自分ですべてやる」ということはできないのだから、ある程度は人の迷惑を承知で行動しなければいけない、というシーンがあると思う。そんなときは怖気づかず行動した方がいい。

※もちろん、人にかけてはいけない迷惑もある。その線引きはしっかりした方がいい。

今回の記事:「人に迷惑をかけるから…という発想を変える」